平将門の首塚に関するニュース

毎月、患者さんに渡す予定表の裏に東洋医学や陰陽思想についてのコラムを書いていて、それがとても好評です。
6月号に書いたコラムは江戸の町つくりと平将門の怨霊の封じ込め、またはそのパワーすら活用しようという意図があると書きました。

まさに昨日のネットのニュースで将門の首塚を再開発できない、たたりを恐れているのでは?というニュースが出ていましたので、私が書いた記事と将門の体を祀った神社を結ぶと北斗七星の形になるというグーグルマップを参照として載せます。
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-江戸の町つくりと陰陽道(風水)NO.3-(続き)
さて、今月は先月の続き、江戸の町つくりに平将門公の力も使っているのでは、というお話です。

天海は、陰陽道の力のみならず、実はもう1つ、大きな力を用いました。それは、遥か昔の平安時代に関東一円を席巻し、「新皇」と称した平将門公の力でした。
将門公は、天慶3年(940)に叛乱者として討ち取られ、京都の七条河原で晒し首となりました。その首は関東にいた愛人を慕って飛び去り、今の東京都千代田区大手町一丁目にある首塚の場所に落ちた後、津波や洪水などの災いをもたらすという伝説を生んで人々から恐れられました。天海は江戸の町づくりを進めるにあたって、この将門公の力を借ります。 首塚の地の近隣には神田神社があり、将門公の胴体を祀っていましたが(一説では、神田とは「からだ」に由来するとも言われています)、天海は首塚はそのまま残して、神田神社を湯島の地に移しました。実はここに、江戸の町を守護する仕組みが隠されているのです。というのも、将門公の身体の一部や身につけていたものを祀った場所は、江戸の各所に存在するのですが、それらは全て主要街道と「の」の字型の堀の交点に鎮座しているのです。首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門(日本橋兜町)に置かれました。これら主要街道と堀の交点には橋が架けられ、城門と見張所が設置されて「見附」という要所になりましたが、天海はその出入口に将門公の地霊を祀ることによって、江戸の町に街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったのです。民衆が奉じる地鎮の信仰と機能的な町づくりを上手く融合させた、まさに設計の妙手と言えるでしょう。このように、江戸の町は街道や掘割といった機能面での仕組みに加え、天海の真骨頂である陰陽道の地相と鬼門封じ、そしてさらに地鎮信仰まで用いてデザインされました。これらソフトとハードの両面での発展の仕組みがあったからこそ、江戸は世界で有数の百万人都市となりえたのではないでしょうか。現在の東京の発展もその延長上にあることを考えると、天海のお陰と言えるのかもしれませんね。

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by 五味哲也

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